隣の芝生は青いのか?

2人暮らしだけど、1人でお気楽食事がいい。けれど料理は無。 日々雑感、生活難、家族難多彩。内向的?毒舌が特徴。

50代での転職は何度も訪れたが、現在も続くとは思っていなかった・・

人生の転機は、40代の初めに別居生活を送った時位だが、

やはり、私の転機は生活の大部分を占める転職人生だなと思う。

 

50代の時、約10年勤めた会社を退職した。

この後は、恐らく正社員雇用は有り得ないと感じていた。

 

当時は、伴侶を亡くした長姉は実家の母の面倒を見る為、

家を売り実家へ舞い戻っていた。

長姉は子無しだったが、母の老後を見る覚悟だったと見える。

次姉や私は、正直ほっとしていたのもつかの間、

実家に移り住んでしばらくしてから長姉は、突然の病に襲われた。

夫である義理兄と同じ癌で

姉の場合は、血液のがん。悪性リンパ種だった。

老いた母と次姉と私で、長姉の看病生活が始まった。

次姉も、当時はパートで働いていたが、距離的に私より実家に近い

場所に住んでいたので必然的にと言おうか系統的に大幅バックアップは

彼女の役割になった。

だが?それがキッカケと言ったら語弊だが、オブザーバー的な私の立場は、

偶々、当時勤務していた会社で嫌気がさし、あるキッカケで姉の看病を

理由に退職してしまった。

病院の送り迎えや母の買い物を次姉と交代でするようになった。

 

会社を退職したのはいいが 自己退職だったので、失業保険は3ケ月後だった。

何とか早く失業給付を受けたい私は、職業訓練の学校に通い

介護の資格を取った。

その後、介護関係の施設の面接を受け、資格があったせいだろうか?

受けた所は、全て内定を貰った。

しかし?いざ介護の職業をすると言う所で足踏みしてしまった。

自分には、やはり無理のような気がして来たのだ。

 50代で、転職出来るだけで御の字なのに、何を血迷ったのだろうか?

私は、昔の知人に頼み込み事務職の就職先を紹介してもらい

運よく、就職出来たのはいいがそこはとんでもないブラック会社だった。

それでも?我慢して働きつづければよかったのかも知れないが、

約1年半で退職。その頃は50代半ばだった。

そして、そこに勤務中長姉は治療の末、寛解になり

もしかしたら全快するかもしれないと言う私達の希望も虚しく

癌細胞は、再び増殖して約1年の闘病の末亡くなった。63才だった。

母は又、一人暮らしを余儀無くされてしまった。

 

長姉が亡くなり、落ち着いた頃でも、私はやっぱり就職先を探していた。

自分は何をやってるのか?この先この年で仕事は皆無だろうと思った。

だが?今度はハローワークや求人誌で必死に自分で探した所に

これまた運よく採用された。

ここで、学んだのは仕事は人に頼らず自分で探すのが

自分の中の信念と言おうかモットーとなった。

これが直前の前職だが、自ら選んだ仕事は、社内の人間関係とかは良好で

自分なりの選択は間違ってなかったように思う。

ちなみに、給与も不思議と前職、前々職より少しだが、上がっている。

こここそ、私の転職人生の終の棲家になると思っていた。

当初、60才の退職と言う就業規則も私の就業中65才までに

延長され給与も変わらず、無事還暦を迎えられた。

だが?会社も5年入れば変わって来る。業績悪化で銀行から派遣された

コンサルタントの会社が入り込み、業務内容を色々変える改革が

行われた。立場的には自分自身には影響のないものだったが、

これで退職して行くものも増えて、社内の雰囲気は一変した。

そんな時に、過ってブラック会社を紹介した知人から現在の転職先の

話を貰った。

 色んな会社の顧問を請け負っている彼は、懲りずに私や誰かいないか?とか

と就職先を斡旋して来る。前職で痛い目にあってる私は無視していた。

だが?何回か言って来る彼のしつこい勧誘と、給与額に

迷った末、60代にして再び転職してしまった。

1万円でも、多く貰える給与に目が眩んだとしか言いようがない。

高齢者でも、金銭的に余裕のある暮らしだったら、無視し続けたと

思うが。。

しかし?蓋を開けて見ないと分からなかった今回の転職も、

既に後悔の道をたどっている。

おいしい話には、裏があるとはこの事だ。

この年で、人生訓練が出来ていなく甘い?言葉に乗った私の

不徳の致す事らしい。

ブラックな会社を転々としてるが、一応給料は貰えているので、

まだ?安全圏と言えるのかも知れない。

この後は、自分をどう転がすか?迷走中だが・・・

 

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